1917年 早稲田ラグビー蹴球部の歴史が始まる
大正6年(1917年)秋のある日、井上成意たちの仲間が大学の校舎の片隅でパスやキックの練習に興じたことが引き金となり、大正7年に産声を上げた早稲田ラグビーの歴史は、2000年11月7日で83年が過ぎた。
昭和2年の画期的な豪州遠征をきっかけとして「ゆさぶり戦法」を編み出し、幾多の名選手を輩出した戦前の黄金時代。また、戦後昭和20年代の常勝時代。あるいは40年代の連覇の歴史。そして50年代、早明伯仲の、常に優勝を競い合った時代など。早明戦の人気を考慮して、協会が国立競技場の観客席を全て指定席にしたというのも、スポーツ界では初めての出来事であった。
こうした、いわば早稲田ラグビーの輝かしい順境の時代は、それとは裏腹に、多くの逆境の時代があったればこそ可能となったのではないであろうか。エンジと黒のジャージーに袖を通すことのできなかった多くのチームメイトの存在があったからこそ、80年の時の流れの中で築かれたものではなかろうか。
太平洋戦争では多くのラガーマンが戦場に赴き、戦火に散った早稲田のラガーマン、その数25名。
戦後は食糧難に加え、畳がなく、窓ガラスは割れ、電灯がない寮でのスタート。OB諸先輩の、自らをもかえりみない援助。
昭和30年代にはBグループ転落からのAグループへの復活。それは優勝した年以上の血のにじむような汗と泥、たゆまぬ情熱、それに知恵の凝縮の賜物ではなかったろうか。37年にどん底から再起した時には、いわゆる「カンペイ」というサインプレーが生まれた。43年に、全日本がニュージーランド遠征でオールブラックス・ジュニアを破った試合でも、この「カンペイ」でトライを挙げている。
近年、ラグビー界も国境の垣根は年々低くなり、情報が、人が、技術が交流する時代である。
しかし、どんな時代背景にあろうとも、技を磨き、戦法を磨き、ひたむきで果敢、俊敏なプレイこそが早稲田ラグビーの真骨頂であろう。
幾多の風雪を越え、早稲田ラグビーは歩んできた。
ラグビーを愛する不断の思いと技術の継承、そして新しい戦法を育んできた創造性。それは力を得、時を得、人を得た時こそ、勝利という名の女神が微笑んでくれるのではないであろうか。15人が一体となった、激しくも麗しいプレーが緑の芝生の上で花開いた時、勝利を超えたた歓びが、早稲田ラグビーを包んでくれるであろう。少年のようなみずみずしい心をもったラグビープレー。そんなひとつのチームが、早稲田が想い描くラグビーの姿かもしれない。
早大上井草グラウンド
早稲田大学ラグビー蹴球部寮
西武新宿線 上井草駅より徒歩2分
西武新宿駅より各駅停車で約20分。高田馬場駅より約17分です。
上井草駅に停車するのは各駅停車のみです。急行や準急は通過しますので、お気をつけください。
また、上井草グラウンドには来場者用の駐車スペースはございません。ご来場の際は公共の交通機関をお使いください。
寮の前のスペースは緊急時の救急車などの駐車スペースとなっています。スタッフ、関係者以外の駐車はご遠慮ください。
ご来場の際は、芝生の中には立ち入らないようお願いいたします。